凌遅刑が執行された歴史上の事例の中でも、後世に語り継がれる著名な事件がいくつか存在します。その多くは、宮廷内の苛烈な権力闘争や戦乱の狂気と結びついていました。
3日間で3,357回削がれた権勢の宦官「劉瑾」
明代の正徳年間に権勢を振るい、「立皇帝(立った皇帝)」とまで呼ばれた宦官の劉瑾(りゅうきん)は、専横と謀反の罪で失脚した際、前代未聞の凌遅刑に処されました。当時の記録『明朝紀事本末』などによると、劉瑾に科された刃数は合計3,357刀。処刑は3日間にわたって執行され、1日目に数百回削ぎ落とされた後、劉瑾は収監先で重湯を飲まされて命を長引かせられ、2日目、3日目と全身の肉を削られながら息絶えたと記されています。
無実の罪で民衆に肉を奪い食われた名将「袁崇煥」
明朝末期、後金(のちの清)の猛攻を最前線で防ぎ続けた英雄的な将軍・袁崇煥(えんすうかん)の処刑は、中国史上屈指の冤罪悲劇として知られます。清のホンタイジ(太宗)が仕掛けた離間策(謀略)に嵌まった崇禎帝は、袁崇煥が敵と内通したと誤認し、凌遅刑を命じました。
北京の処刑場に引き出された袁崇煥に対し、彼を「国を売った大罪人」と信じ込まされた狂乱の民衆は、削ぎ落とされた肉片を奪い合い、生野菜に巻いて酒の肴として喰らい尽くしたと伝えられます。後に清朝の乾隆帝の時代になって公式に名誉回復がなされましたが、集団ヒステリーの恐ろしさを物語る凄惨な一幕でした。
清末最後の無法者「康小八」の最期
清朝末期に北京一帯を荒らし回った盗賊・康小八(こうしょうはち)は、1905年に凌遅刑に処された人物の一人です。西太后の御前で不遜極まりない態度をとったことで激怒を買い、通常の斬首ではなく凌遅刑が下されました。康小八は処刑中、激痛に顔を歪めながらも一言の命乞いも叫び声も上げず、執行人を睨みつけながら果てたという逸話が当時の北京市民の間で語り草となりました。