ジャン=フランソワ・ミレー(1814–1875)自身、恵まれた環境でこの名画を描いたわけではありません。彼の生涯と手記を辿ると、描かれた農民たちと地続きの苦悩が浮き彫りになります。
「私は農民として生まれ、農民として死ぬ」
ノルマンディー地方の敬虔な農家に生まれたミレーは、幼少期から農作業を手伝い、大地の厳しさを肌で知っていました。パリに出て画業を志すものの、生活は困窮を極めました。生活のために描いた官能的な肖像画や風俗画に嫌気がさしたミレーは、1849年にコレラが猛威を振るうパリを脱出し、フォンテーヌブローの森に隣接するバルビゾン村へと移住します。
1856〜1857年の極限状態:自殺を考えたどん底での制作
バルビゾンでの生活は厳しく、友人への手紙には「薪を買う金もない」「パン屋へのツケが払えない」といった悲痛な叫びが頻繁に綴られています。『落穂拾い』を制作していた1856年から1857年にかけて、ミレーは貧窮の極限に達し、一時は自殺すら考えたと関係者の証言に残されています。
自身が飢餓と隣り合わせの生活を送っていたからこそ、ミレーは落ち穂を拾う女性たちの姿を決して上流階級の気まぐれな好奇心や哀れみではなく、尊厳と重みを持った生身の人間として描き切ることができたのです。