毛皮のマリーズが遺した最大の謎、それは「なぜ売れっ子になり、日本武道館へ到達したその日に解散しなければならなかったのか」という一点に集約されます。2011年9月6日、TOKYO FMの生放送番組『SCHOOL OF LOCK!』において、志磨遼平自身の口から「12月5日の日本武道館公演をもって毛皮のマリーズは解散する」と告知された夜の衝撃は、今もロックファンの記憶に生々しく刻まれています。
一般的なバンドの解散劇といえば、音楽性の不一致やメンバー間の感情的摩擦、あるいはセールスの低迷に伴うレコード会社からの契約終了が定番です。しかし、毛皮のマリーズ 解散理由の本質は、そのいずれとも決定的に異なっていました。志磨遼平が後に自著や長編インタビュー、当時の特番で赤裸々に告白している通り、このバンドは最初から「日本武道館で死ぬこと」をあらかじめ運命づけられた一本の劇的なロックオペラだったのです。
志磨は1970年代のグラムロックや初期パンク、とりわけデヴィッド・ボウイが名作『ジギー・スターダスト』の架空のロックスターをステージ上で射殺して終わらせたようなコンセプチュアルな美学に強い憧憬を抱いていました。彼にとって毛皮のマリーズとは、終焉の瞬間まで完璧にコントロールされたアートピースであり、長寿化によるマンネリズムや老いを見せることは許されない絶対不可侵の物語でした。アルバム『ティン・パン・アレイ』において贅沢なストリングスと黄昏のメロディを鳴らし、ラストアルバム『THE END』をロンドンのアビーロード・スタジオで録音し終えた時点で、バンドとしての表現は完全に飽和し、文字通りの終結を迎えていたのです。
一部のメディアや批評筋では「メジャーの過剰な消費サイクルに殺されたのではないか」という同情論も囁かれましたが、実態は逆でした。メジャーレーベルの手法や資本、宣伝力を極限まで逆手に取り、自らの死に様を最高峰の舞台で華々しく演出するために日本コロムビアと武道館を完全に「表現の舞台装置」として共犯関係に引きずり込んだのが毛皮のマリーズ 解散の真相でした。