1945年8月の終戦を迎えると、事態は暗転します。戦時中に競って戦争画を描いていた日本の画家や美術関係者たちは、自らの戦犯追及を逃れるため、従軍画家の中心的存在であり国際的知名度の高かった藤田嗣治ひとりに「戦争協力の主犯」としての責任を集中させました。
日本美術会の内部で行われた糾弾は熾烈を極め、GHQに対する戦犯画家のリストアップにおいても藤田の名前が矢面に立たされることになります。しかし、皮肉にもGHQの美術調査担当官であったエドワード・デミス・テニー中尉らは、藤田の戦争画の高い芸術性を認め、戦犯としての起訴を見送りました。
仲間たちからの手のひら返しと裏切りに深く絶望した藤田は、1949年3月に羽田空港から日本を離れます。離日直前、見送りに訪れた数少ない友人に残した「絵描きは絵だけを描いていればいい。日本にいてはそれができない」という言葉は、痛烈な告発として今に伝わっています。
1955年にはフランス国籍を取得し、1959年にはカトリックの洗礼を受けて洗礼名「レオナール」を名乗りました。以降、1968年に81歳でスイス・チューリッヒの病院で世を去るまで、藤田が再び日本の土を踏むことはありませんでした。