土佐勤王党が台頭する最大の転機となったのが、1862年(文久2年)に起きた参政・吉田東洋の暗殺事件です。吉田東洋は藩政改革を推進する実力者であり、開国・公武合体派として武市らの尊皇攘夷論と真っ向から対立していました。
東洋の存在が壁となっていた武市らは、刺客を放って東洋を暗殺。実権を握った勤王党は藩論を尊皇攘夷へと転換させ、京都の朝廷工作で三条実美ら尊攘派公卿と結託して権勢を誇りました。しかし、土佐藩の前藩主であり絶対的な権力者であった山内容堂は、東洋を重用していた経緯もあり、武市らの過激な専横を快く思っていませんでした。
1863年(文久3年)の「八月十八日の政変」によって尊攘派が京都から追放されると、容堂は一気に反撃に転じます。土佐勤王党に対する大弾圧が始まり、首謀者とみなされた武市は投獄され、過酷な取り調べを受けることとなりました。