小倉百人一首の記念すべき第1番歌として、日本人にとって最も馴染み深い「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」。この歌の作者が天智天皇(中大兄皇子)であることに対し、疑問を抱く読者は少なくありません。
なぜ蘇我氏を討ち滅ぼし、近江令を制定して中央集権化を推し進めた冷厳な大王が、粗末な小屋で露に濡れる農夫の苦哀を詠んだのでしょうか。
古代文学の文献批判において、この歌はもともと「民間伝承の農民歌(読人しらずの古歌)」であった可能性が高いとされています。『万葉集』巻十に極めて類似した歌(「秋田刈る仮庵を作り我が居れば 衣手濡れぬ露をもとなみ」)が存在し、これが宮廷に伝わる過程で天智天皇の御製として仮託されたと考えられています。
ここで重要なのは、「偽作だから価値が劣る」という短絡的な評価ではなく、「なぜ天智天皇の歌として定着したのか」という受容の歴史です。
中国の古典思想における「仁政(民の苦しみを我が苦しみとする徳治政治)」の概念が、平安時代から鎌倉時代にかけて天皇像の理想とされました。藤原定家が百人一首を編纂した際、激動の古代を統率した天智天皇を巻頭に据え、この農民への慈愛を詠んだ歌を冠することで、「和歌とは国家を治め、民を思いやる最高至純の道である」という中世の歌道理念を宣言したのです。