荷風の文学的キャリアにおいて、森鴎外という巨星の存在は極めて大きかった。帰国後の荷風を高く評価し、慶應義塾大学の教授職や雑誌『三田文学』の主宰へと推薦したのは鴎外その人である。鴎外の持つ冷徹な観察眼と官僚的理知に対して、荷風は深い敬意を抱きつつも、アカデミズムの枠組みに対する強い息苦しさを感じていた。大学を去り、市井の隠者として生きる道を選んだ背景には、自らの美学を徹底的に貫こうとする孤高の意思があった。
組織や肩書に縛られることを心から嫌った荷風にとって、教授としての日常は自己の美学との矛盾に満ちていた。結局、大学を辞職し浅草の興行街や遊郭へと足繁く通うようになった彼は、文壇の表舞台から身を引くことになる。しかし、その決断こそが『断腸亭日乗』という前人未到の日記文学を生み出す最大の原動力となった。