藤圭子は日本での華々しいキャリアを捨て、アメリカ・ニューヨークへと渡る。そこでプロデューサーの宇多田照實と出会い、娘・ヒカルが誕生した。ニューヨークというマルチカルチャーな都市で、彼女は娘にクラシックからR&B、そして日本の古い歌謡曲まで、ありとあらゆる音楽を浴びせるように聴かせたという。
スタジオが遊び場だった幼少期のヒカルにとって、母の歌声は日常そのものだった。藤圭子は単に歌を教えるのではなく、音楽が持つ「感情の解放」の力を背中で見せていた。英語と日本語の狭間で揺れる少女の感性に、母が持っていた「歌わずにはいられない衝動」がブレンドされ、のちに『Automatic』という怪物級のデビュー作が生まれることになる。