将門の電撃的な挙兵に対し、朝廷の初期対応は遅れを極めた。軍事的基盤を持たない公家政権が頼ったのは、現地で東国の武士たちを束ねていた平貞盛や藤原秀郷らであった。
藤原忠平は、追討使の発行と同時に恩賞の提示というアメとムチを巧みに使い分けた。地方の武士たちに「朝廷の公認」という権威を与えることで、反乱軍の切り崩しを図ったのである。この戦略が見事に功を奏し、将門は急襲を受けて最期を迎えることとなった。
しかし、この平定劇がもたらした意味は極めて大きい。朝廷が自前の軍隊を持たず、武士の力に依存して国家の安寧を維持せざるを得ない現実が露呈したからだ。朱雀天皇の治世は、王朝国家の軍事構造が根本から変容する歴史的転換点となったのである。