誓文の成立過程には、性格も思想も異なる三人の政治家が深く関わっている。原案を起草したのは越前藩出身の由利公正だった。坂本龍馬とも親交が深かった由利が書いた「議事之体大意」は、驚くほど経済優先かつ開かれた内容だった。「庶民志を遂げ」という文言に見られるように、民間の活力を引き出し、富国強兵の基盤を築くプラグマティズムがそこには脈打っていた。
だが、この草案に待ったをかけたのが土佐藩の福岡孝弟である。福岡は由利の案から民衆の影を薄め、代わりに大名たちによる「列藩会議」を強く意識した修正を施した。「列藩の意見を集約する」という枠組みを押し込むことで、諸侯の権益を守ろうとしたのだ。この時点で、文書は封建領主たちの妥協の産物へと後退しかけていた。
この停滞を打ち破ったのが、長州の知性・木戸孝允だった。木戸は福岡の案から「列藩」という限定的な言葉を冷酷に削り落とし、「広く会議を興し」という普遍的かつ抽象的な表現へと昇華させた。諸侯の合議制に見せかけつつ、将来的に彼らの権力を剥奪して中央集権化を断行するための伏線を張ったのだ。三者三様の思惑が交錯した結果、歴史に残る名文が誕生した。