大水害耐えた諫早眼鏡橋の真実!長崎との違いや移設理由を徹底解説

大水害耐えた諫早眼鏡橋の真実!長崎との違いや移設理由を徹底解説

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諫早眼鏡橋を語る上で避けて通れないのが、1957年(昭和32年)7月25日に発生した「諫早大水害」です。死者・行方不明者600名を超える未曾有の豪雨災害において、本明川の濁流は市街地を容赦なく呑み込みました。

周囲の家屋や建造物が次々と押し流される中、諫早眼鏡橋は激流と大量の土砂を受け止めながらも、本体はびくともせず崩壊を免れました。その驚異的な堅牢さは当時の人々を驚嘆させましたが、皮肉にもその頑丈さが仇となります。上流から流れてきた流木や家屋の残骸が頑丈な橋脚に引っかかり、橋が巨大な天然ダムとなって水位を急上昇させ、市街地の浸水被害を拡大させる一因となってしまったのです。

水害後、抜本的な河川改修計画が進む中で、眼鏡橋の「爆破撤去」が真剣に議論されました。しかし、先人たちが心血を注いだ歴史的遺産を失ってはならないと、市民や文化財保護関係者が立ち上がります。その結果、国の重要文化財指定を取り付け、昭和34年から35年にかけて諫早公園(高城城跡)の敷地内へ解体・移設される運びとなりました。川から陸上の公園池へと場所を変えた背景には、水害の悲痛な教訓と文化遺産を守り抜いた人々の執念が刻まれています。

山崎 陸
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山崎 陸

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