叔母の行動を理解する上で欠かせないのが、当時の食糧配給制度の実態である。太平洋戦争末期の1945年、日本国内の食糧不足は極限に達していた。米や生活必需品は厳格な配給制となっており、それは各家庭の労働力や防空活動への寄与度に応じて割り当てられていた。
未亡人の叔母の家においても、彼女の娘や下宿人は工場や国民学校へ通い、国家の戦時体制に直接貢献することで配給を得ていた。一方で、学校へも行かず防空演習にも参加しない清太と、まだ幼い節子の存在は、配給枠を超えた食糧の持ち出しを意味した。清太の母親が残した着物を米に変えた際、叔母が「この米はみんなで食べる」と主張した背景には、一家の食糧庫を管理する者としての切実な生活上の防衛策があったのだ。