山県昌景の代名詞といえば、軍装をすべて朱塗りで統一した「赤備え」です。戦場においてひときわ目立つ赤色は、敵の標的になりやすい危険を伴うため、部隊全員が卓越した武勇と規律を誇る最強の証として恐れられました。
この赤備えはもともと兄・飯富虎昌が創始したものでしたが、昌景が部隊を引き継いだことで、その戦術的威圧感は完成の域に達しました。天正3年(1575年)の長篠の戦いで昌景が戦死し、その後に武田家が滅亡すると、徳川家康は武田の軍事組織を徹底的に研究し、山県の旧臣たちを重用します。
家康は自らの側近である井伊直政に山県旧臣を配属させ、ここに「井伊の赤鬼」として知られる新たな赤備えが誕生しました。さらに大坂の陣で名を馳せた真田信繁(幸村)も赤備えを採用しており、山県昌景が磨き上げた部隊運用のブランドは、時代と陣営を超えて受け継がれることとなりました。