主人公の衝撃的な引退劇は、なぜ引き起こされたのか。その経緯には複数の心理的・構造的要因が絡み合っています。決定打となったのは、フィリピン王者アントニオ・ゲバラ戦での敗北でした。直前のアルフレド・ゴンザレス戦での死闘による疲労とダメージが抜け切らない中、一歩は「鴨川会長へ新型デンプシーロールを見せたい」という焦燥感に囚われ、ボクシングの基本である左を忘れ、直進的な被弾を重ねてマットに沈みました。
当時、ファンの間で最大の議論を呼んだのが「パンチドランカー(慢性外傷性脳症:CTE)疑惑の真相」です。作中における精密検査の結果、脳に構造的な萎縮や器質的病変は見られず、医学的な診断は「グレー(疑い)」にとどまりました。一歩が直線を描けなくなったり距離感を誤ったりしていた真の原因は、長年の激闘による深刻な疲労蓄積、強烈な打撃を受けたことによる三半規管・空間認識の一時的な狂い、そして「これ以上負けたら母を悲しませる」「久美との約束を守らなければならない」という極限の心理的プレッシャーが引き起こした機能不全でした。
つまり、一歩の身体は決して「二度とボクシングができない壊れた身体」になったわけではありません。過剰なダメージを抜くための十分な休養期間と、頭部への被弾を避けるディフェンス技術の再構築こそが、作者が用意した復帰への必須プロセスだったといえます。