政界入り前の麻生太郎氏が1976年モントリオールオリンピックに日本代表選手として出場していた事実は、いまや伝説的なエピソードとして語り継がれています。「名門・麻生家の御曹司だから特別枠で選ばれたのでは」といった穿った見方をされることもありますが、選考プロセスの記録を紐解けば、それが完全な実力主義による正当な選出であったことが明白です。
麻生氏がクレー射撃を本格的に始めたのは学習院大学時代でした。並々ならぬ集中力と動体視力を発揮した同氏は瞬く間に頭角を現し、国内外の遠征で腕を磨きます。五輪選考を兼ねた全日本選手権をはじめとする公式競技会において、麻生氏は当時の日本公認最高記録(198点/200点満点)を叩き出し、ライバルたちを圧倒的なスコア差で退けて代表権を獲得しました。
日本代表の座を射止めた理由は、名声や血筋などではなく、純粋に「当時の日本で最もスキート射撃が上手かった」という冷徹な数字の証明に他なりません。過酷な重圧のなかで研ぎ澄まされた勝負勘は、後の政治家人生における強靭なメンタリティの礎となりました。