三島由紀夫がなぜ市ヶ谷駐屯地をその終焉の地に選んだのかを理解するには、「楯の会」と自衛隊の特異な歴史を振り返る必要があります。
三島は1967年以降、自らの肉体を鍛え直すとともに、陸上自衛隊への単身体験入隊を敢行。さらに自身が私費を投じて組織した「楯の会」の学生たちを自衛隊富士学校や習志野駐屯地へ送り込み、過酷な軍事教練を受けさせていました。
当時、自衛隊首脳部の一部は、過激化する全学連や極左勢力に対抗する民間防衛構想の一環として三島を支援していました。今回人質となった益田兼利陸将も、三島に対して深い理解を示し、好意的に接していた人物の一人でした。
三島にとって自衛隊は「自らの祖国への憂いを共有できる唯一の存在」であると同時に、「日本国憲法第9条の呪縛によって軍隊としての誇りを奪われた悲哀の組織」に見えていました。信頼を寄せてくれた益田総監をあえて拘束し、自衛隊員の前で命を絶つという手段を選んだ背景には、自衛隊員たちに「目覚めよ」と促すための、自らの命を賭した劇薬としての意図があったと考えられています。