白河小峰城跡が名城と呼ばれる理由!弾痕と石垣修復の真相を徹底取材

白河小峰城跡が名城と呼ばれる理由!弾痕と石垣修復の真相を徹底取材

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白河小峰城跡を深く味わうために欠かせないのが、城主たちの変遷とその歴史的背景です。もともと南北朝時代の1340年(興国元年/暦応3年)頃に結城親朝(ゆうきちかとも)が小峰ヶ岡に城を構えたのが始まりと伝えられますが、現在見る近世城郭の原型を築いたのは、丹羽長秀の長男として知られる名将・丹羽長重でした。

1627年(寛永4年)、棚倉から白河に加増移封された長重は、幕命を受けて城郭の大規模改修に着手。約4年の歳月をかけて本丸、二ノ丸、三ノ丸、土塁、堀、高石垣を備えた総構えへと生まれ変わらせました。白河は奥州街道と越後街道が交差する「奥州の玄関口」であり、徳川幕府にとって東北の雄藩(伊達家や上杉家など)を監視・牽制するための最重要軍事拠点だったのです。

そして江戸中期、この城に君臨したのが徳川吉宗の孫であり、白河藩主から幕府の老中に抜擢された名君・松平定信(楽翁)です。定信は城下において質素倹約を旨としつつ、身分を問わず庶民が憩える日本最古の公園とされる「南湖公園(なんここうえん)」を築造するなど、先進的かつ人道的な民政を行いました。

天災や飢饉に苦しむ領民を救済し、他藩に先駆けて備蓄制度「社倉法」を整備した定信の治世は、城内の遺構や周囲の名所にも色濃く息づいています。小峰城の峻厳な軍事性と、松平定信がもたらした文治主義の気風——この二面性こそ、城跡の散策に奥行きを与える歴史のスパイスです。

木村 陽翔
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木村 陽翔

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。