事態はいかにして帝大全体、ひいては全国の知識層を巻き込む大騒乱へと発展したのか。緊迫の経緯を時系列の年表で振り返ります。
【滝川事件の主な年表・タイムライン】
・1932年10月:中央大学で行われた滝川教授の学外講演が、右翼系学生によって暴力的に妨害される。
・1933年3月:貴族院および衆議院の本会議において、菊池武夫議員や宮沢裕議員らが滝川学説を「無政府主義」「マルクス主義的」と名指しで攻撃。内務省が『刑法読本』を発売禁止処分に指定。
・1933年5月8日:文部大臣の鳩山一郎が、京都帝国大学の小西重直総長に対し、滝川教授の自発的な辞職を勧告。
・1933年5月26日:大学側(総長および法学部教授会)が「学問の自由と大学の自治」を盾に辞職要求を拒絶。これに激怒した文部省は、文官分限令を強引に適用して滝川を強制休職処分に付す。
・1933年5月27日〜6月:法学部の教授・助教授・専任講師全39名が連帯して辞表を提出。学生たちも同盟休校(ストライキ)や抗議集会、全学的な退学届提出運動を展開。
・1933年7月:文部省と京大当局は、小西総長を更迭し松井元興を後任に据えて強硬な切り崩し工作を敢行。辞表を出した教官団の中で意見対立が生じ、最終的に佐々木惣一、恒藤恭、末川博らを含む主力教官が大学を去る形で終息。
大学の自治を守るための砦であった法学部教授会は、国家権力の徹底的な圧力と学内分断によって、最終的に大きな傷を負って瓦解させられました。