では、記録に残る「唐人お吉 実話」の実像はどのようなものだったのでしょうか。幕末の外交記録や下田奉行所の史料を精査すると、舞台劇とは大きく異なる事実が判明しています。
1857年(安政4年)、タウンゼント・ハリスは激しい体調不良に悩まされ、奉行所に「看護人(看病のための召使)」の斡旋を強く要求しました。ハリス側は男性を希望したものの適任者がおらず、奉行所は高額の給金を提示してお吉を雇い入れました。当時の記録によると、お吉に支払われた支度金は25両、月給は10両という破格の待遇でした(当時、大工の月収が2両程度)。
しかし、ハリスの日記には「女性の看護人は不要である」「彼女たちの処遇に困惑した」旨が明記されており、お吉はわずか3日間で解雇され、玉泉寺を去っています。つまり、世間で信じられているような「長期間にわたり異人(ハリス)の現地妻として暮らした」という事実は、一次史料からは一切確認できません。